空飛ぶOL 短編私小説へ戻る
男やもめにうじがわく。女やもめに花が咲く。
とはいえ、女も二九歳で独身ともなれば、いささかとうも立ってこようというものだ。
「園田さん、丸丸物産への礼状、こんなもんでいいですか?」
「ん?なによこれ。これじゃあ礼状じゃなくて単なる挨拶状じゃないの。だいたい拝啓ときたら敬具って締めるのが常識よ。美幸ちゃん。わからないのなら本を見なさい、本を。丸写ししたってこれよりもましだから」
園田花江。二九歳。独身。
丸の内にある某大手商社のOLである。
「松田君、ばかやってないで報告書早くちょうだいね。今日中にまとめなくちゃならないんだから」
やりてばばあ。影の部長。いろいろいわれているが、言いたいやつには言わせておけと思っている。
「ああ、いけない。今日は定時退社の日じゃない。もうみんな何してんのよ。結局わたしが尻拭いすることになっちゃうのよね。いつも」
世界中の苦労は、全てわたしが背負っている。そういうタイプの人間である。
普通は人事異動等で勤務が入れ代るので、ひとつの部署、ひとつの場所に長くいるということは希であるが、女性の場合結構そういったことが多い。
花江もそうで、ひとつの部署で勤続10年ともなれば向かうところ敵なしだ。
課長ですら、大事なことは花江にお伺いをたてる。
花江は山のような書類を鞄に詰め込み、バックアップをとったフロッピーディスクをスーツのポケットにねじ込んで帰路についた。
今日は特に忙しかったので、化粧は一度も直していない。
口紅を引き直す時間くらいはあったのだろうが、頭は仕事でいっぱいである。
信号待ちですらいらいらしながらマンションに帰り、シャワーも浴びずに机に向かった。
どさりと書類をひっぱり出し、パソコンのスイッチを入れる。
モニターの画面が、化粧のとれた額に映った。
「八時からエアロビクスに行かなけりゃならないのに、なんであたしだけがこんなことしなくちゃいけないのよ、もう」
ぶつくさ言いながらキイボードを叩いた。
会社での勢いをそのまま持ってきたので、見る見るうちに仕事が仕上がっていく。
口先ばかりでなく、実際に仕事が出来るから陰口が多くなるのである。
ラストスパート。
機関銃のように指先が走る。
ピイン、ポオン。
「ああもお、だれかしら」
ピポ、ピインポオン。
花江は時計に目をやりながら、インターホンの受話器をとった。
「はあい」
「あたしだよ」
「なあんだ、咲子か」
「なあんだはないでしょ。入れとくれよ」
花江の親友の桜咲子だった。
「迎えに来たよ」
「まだ早いよ。まだ仕事終わってないし。お茶でも飲んで待っててよ。自分で入れてよ、お茶」
咲子は既婚者だ。
高校時代からのつきあいである。
咲子の家は花江のマンションから車で10分。
エアロビクスのある日は必ず迎えにくる。
「買い代えたのよ、くるま。それで、見せびらかそうと思って早くきたのだよ」
「またあ?おかねもちねえ。古本屋ってそんなに儲かるの?」
咲子の旦那は古本屋を営んでいる。
「中古のファミコンソフト始めたら、これがおおうけでさ。そんなこといいから早く終わらしちゃいなさいよ、仕事」
花江は仕事をダッシュで片付け、バッグにレオタードを詰め込んだ。
新車は快適であった。
エアコンはつけずに窓を開けた。
「ねえ、花江」
「ん?」
「かれは?」
「別れたって言ったじゃない」
「じゃあ本当にあれっきりになっちゃったの?」
「そうよ。もう半年」
「ばかねえ。あたし絶対結婚すると思ってたのに」
「あたしもよ」
「ラストチャンスじゃない」
「わかってるわよ」
「どうするのよ」
「どうするって?」
「結婚よ」
「知らないわよ」
「キャリアウーマンもいいけど、やっぱり最後には落ち着くところに落ち着かなくっちゃ」
着いた。
咲子は旦那のためのエアロビクス。
花江は健康のためのエアロビクスである。
一汗かいた二人は咲子の家へ行った。
旦那が町内会の旅行でいないので、咲子の家で食事をすることにしたのだ。
家で食事といっても店屋物である。
寿司が届くまでにシャワーを浴びた。
花江は普段から薄化粧なので、化粧がとれてもどうということもないのだが、咲子は厚化粧なので、風呂上りは誰だかわからなくなる。
二人とも片手にビール、片手にバスタオルだ。
「ねえ、花江。あんただってもうちょっと気合入れて化粧すれば、結構いい女なんだから頑張ったほうがいいわよ」
「いいのよ、もう。来年30だし」
「だからするのよ」
「もうあきらめた。結婚。なんか面倒くさくなっちゃってさあ」
「あきらめちゃだめよ。あんたの会社って男がいっぱいいるんでしょ?いないの?一人くらい物好きなやつが」
「物好きとはなによ。あたしだってこう見えても、何回も言い寄られたことがあるんですからね。今だって・・・」
「今だってなによ」
「いいじゃないよ、なんだって」
「よかないわよ。そうだ、お見合いなんかどうなのよ、お見合い」
「実は、行ったのよ、このあいだ」
「行ったって?」
「お見合いよ。部長の紹介でさ。丁度君にお似合いのがいるからって」
「で、どうだったの?」
「三二歳だっていうんだけど、どうみても四〇過ぎね、あれ」
「老け顔なんだ」
「おなかも出てるのよ、おもいっきり」
「失礼しちゃうわねえ」
「失礼しちゃうでしょお」
「で、どおしたの?」
「断ろうと思ったら、先に断られちゃった」
「・・・・・」
「さあ、今日は食って飲むぞ。全部咲子のおごりだからね」
「いいわよ。恵まれないおばさんに愛の手をだからね」
「結婚していない女は、おばさんにはならないのだ」
「とっくになってるわよ」
「そうそう、ねえ咲子、また本貸してくれない?」
「うちは古本屋よ。たまには買ってよ」
「けちけちしない。恵まれないおばさんに愛の手をでしょ」
「調子いいんだから。どれでもいいから持ってけば」
「サンキュー」
花江は座敷の引き戸を開け、店に降りた。
暗い店内でビールを片手に古本を物色していると電気がついた。
「花江、あんた泣いてるの?」
「ちがわよ、ほこりよ、ほこり。ちゃんとはたきかけてるの?この店」
「まあいいわ。見つかった?おもしろそうな本」
「まだ」
「でも変わってるわよね、花江って」
「なにが?」
「ばりばりのキャリアウーマンのくせして、持ってく本といえば、メルヘンだのお伽話だのって」
「好きなのよ、ああいうの」
花江は店内を一周して、咲子のいる引き戸の前へ戻ってきた。
引き戸の上にも棚がある。
花江の目はその棚の一点に止まった。
「ねえ咲子、あれ、なあに」
「ん?」
促されて咲子も店に降りた。
咲子は、今まで自分の頭上にあった棚に並んでいる本のうちから、花江の視線の当たっている本を見た。
背表紙が見えているが、そこにはタイトルが書いていない。
咲子はキャスターの付いている踏み台を持ってきて棚からその本を降ろした。
縦三〇センチ横二〇センチ、くたびれた皮表紙の分厚い本である。
「こんな本あったかしら」
咲子は首を傾げながら表紙を開いた。
花江は隣から首を伸ばして覗きこんでいる。
その本の一枚目は白紙であった。
次の頁から文字が書かれていたがその裏は白紙。またその次も文字の裏は白紙というように、どうやらこの本はタイプで打った物を、皮の表紙に、にかわかなにかで貼り付けた手作りの本のようであった。
英語で書かれていた。
「ねえ、咲子。この本借りていいかしら」
花江は咲子の手からそっと本を受け取った。
「いいけども、うちにこんな本置いてなかったと思うんだけど。確か、今朝整理したときもなかったと思うんだけど」
「いいじゃないどうでも。きっと旦那さんが置いたのよ」
「へんねえ。そうかしらねえ」
「気にしない気にしない。じゃあこれ借りるということで、飲みなおそ」
花江がタクシーで自宅に着いたのは、夜中の2時を回ってからであった。
花江は、今日も定時で帰宅した。
定時退社の日ではないが帰ってからすることがあった。
昨日の酒は午前中残っていたが、昼休みのお喋りですっかり抜けた。
健康のためにやっているエアロビクスも、その後、夜中まで酒を飲んでいたら何のためだか分からなくなる。
しかし、花江は身体と精神の両方のためになっていると満足している。
家に帰るとシャワーを浴び、ピンクのバスローブのままコンピューターの前に座った。
左手にワイン、右手で電源を入れる。
ハードディスクが立ち上がるまで、ワインをひとくち含み、足を組み直す。
パソコンのデスクトップから英和翻訳アプリケーションを選択した。
作業開始である。
花江は一日中わくわくしていた。
仕事中も、あの本のことが気になって仕方がなかった。
昨日の夜、咲子の家から帰ってすぐにぱらぱらと借りた本をめくってみた。
花江は英語は得意ではないが、仕事柄ある程度はできる。
ざっと見てみると、どうやらこの本はハウトゥ本のようなのだ。
少しがっかりしながら題名を数頁追ってみると、ただのハウトゥ本ではないようであった。
<家を食べる方法>
<月を1インチ動かす方法>
<熱い氷を作る方法>
<夢を保存する方法>
などなど・・・・・。
花江にとっては、どれもこれも楽しそうな題名ばかりだ。
昨日は夜遅かったので手はつけなかったが、早く読んでみたくてうずうずしていたのだ。
翻訳開始。
始めのページ。
白紙の紙の次、2枚目である。
<THE WAY OF FLYING>
飛ぶ方法だ。
キーボードを叩く。
モニターの英文はみるみる日本語に変わってゆく。
辞書を引く。
キーボードを叩く。
ワインを飲み干し、また、キーボードを叩く。
顔が上気しているのが、自分で分かる。
花江はバスローブを脱ぎベッドに投げた。
「おもしろいわ」
窓を開け放つ。
外の空気がすうっと入り込んでくる。
その空気を両手ですくいとり、頭上に振りまいた。
見えない空気は、きらきらときらめいて花江の裸身を包んだ。
「おもしろいわ」
もう一度言った。
「美幸ちゃん、なによこれ」
今日の花江はいつもの花江であったが、何かが違っていた。
「どこか、間違えてましたでしょうか」
「どこかじゃないわよ。全部書き直しね。これはトラブルの抗議状でしょう?こんなんじゃ、こっちが悪いみたいじゃないよ」
「すみません。もう一度本を見ながら書き直します」
「いいわ、あたしがやってあげるから、そこに置いといてちょうだい」
言うことはいつものようにきついのだが、顔が笑っているのだ。
化粧のせいだろうか。
心のせいだろうか。
花江自信も感じていた。
今日は何かが違う。
そう、あの本を読んでしまったからだ。
うふふ。
おもわず、一人笑いが唇からこぼれる。
ばっかみたい、と思う。
うそに決まってるじゃない、と思う。
でも素敵よね。本当に飛べたら。
「素敵よね」
「はっ?何がですか?」
「あっ、なんでもない。松田君、これ出来たから、課長にはんこう貰ったら、また持ってきてね」
「はっ、はい」
周囲の戸惑いをよそに、就業のメロディーが流れるまで、いつもの花江はいつもの花江ではなかった。
花江は帰り支度を済ませると、珍しくレストルームで化粧を直した。
鼻歌まじりだ。
三日連続の定時退社など、花江にとっては入社以来初めてのことである。
プランは出来ていた。
明日は土曜で休みだから、今日の帰りがけと明日とで必要な物を買い揃える。
明日の夜咲子に電話をして、日曜日に約束を取り付ける。
そして日曜の夜中、マンションのベランダから、咲子の見てる前で、飛ぶ。
本当に飛べるなどと思っているわけではない。
しかしそれに至るプロセスこそが、今の花江には重要なのであった。
オフィスは五階だ。
四つあるエレベーターは、何れも10階以上にいる。
花江は待ちきれずに階段を駆け降りた。
会社帰りの人でごった返すエントランスを足早にすり抜け、まだ明るい外に踊り出た花江は、ふと一つの視線を感じた。
社屋の脇に植えられている桜の木のあたりだ。
春には見事な花を咲かせた木であるが、今は鬱蒼とした葉桜だ。
その影からすらりと涼しげな背広姿が、花江に向かって歩いてくる。
来た。
と花江は思った。
暫く前から幾度となく視線が合っていた男性である。
「園田さん、ですよね」
「は、はい」
「ぼく、商務課の橘です」
花江は知っていた。
大きい会社なので、部が違うとほとんど顔を合わせる機会がない。
ましてや、他の部の人間の名前など知らなくても、仕事になんら支障はきたさないのだ。
では、なんで花江が知っていたかというと、気になる人間の名前を調べる手段を花江が知っていたからである。
「突然ですみません。他に方法がなかったもので。待ち伏せみたいになっちゃいましたね」
橘は笑いながら頭を掻いた。
精悍な顔つきの中に、少し幼さの残る表情は花江の好みにぴったりだ。
「あの、なにか?」
と、聞きはしたものの、花江には橘の用向きが分かっていた。
誘いであろう。食事でも、と。
「実はちょっとお話しがあって。よろしければこれからお食事でもいかがでしょうか」
やはりそうだった。
「いえ、わたし、これからやらなければならないことがありまして」
「お約束ですか」
「いいえ、そんなんじゃないんですけれど」
「じゃあいいじゃありませんか、一時間くらい」
いつかはこうなるであろうと思っていた。
こうなってもよいという確認は、お互いの視線によって出来ていたのだから。
結局押し切られたかたちで、有楽町で食事をすることになった。
橘はタクシーに乗り込むと、運転手に遅滞なく目的の場所を告げた。
計画通りなのであろう。
セイモアという名のレストランであった。
「とりあえずビール、でいいですか?」
「あの、あたし」
「飲めるんでしょう?けっこう」
「いえ、あの」
「とりあえずビール下さい」
店内は明るかった。
テーブルには、赤いカーネーションが一輪生けてある。
雰囲気は高級そうだが、メニューはリーズナブルであった。
花江の好みに合っている。
「いい店でしょう。まだ時間が早いからすいてるけど、8時過ぎると思いっきり混むんですよ、ここ」
「あの、わたしやっぱり帰ります」
「え?そんなこと言わないでください。僕もこうやってあなたを誘うまでには随分悩んだんです。いま帰られちゃったら、次はありません」
「でも、今日は本当にしなくちゃいけないことがあるんです」
「だからほんの少し。店が混んでくるまでにはお帰しします」
いい男であった。
年は三二歳。
やさしくて、真面目で、背もすらっと高く、なぜこのような男が独身なのか花江には分からなかった。
きっちり八時に店を出た。
後の誘いがなかった代わりに、次の約束をした。
花江は自分の九九パーセントを隠していた。
橘も同じであろうと思った。
少し付き合ってみないとお互いは分からない。
花江は、送りますという橘を次のデートで送ってくださいと断り、マンションに帰った。
帰り道に買い物をするなどということは、すっかり頭から消えていた。
部屋の電気を付け、スーツを着たまま、バッグも持ったままベッドにごろりと仰向けになった。
ゆっくりと目を閉じる。
なにもこんなに早く帰ってこなくてもよかったんだわ、と思う。
でも始めはこのくらいが丁度いい、とも思う。
花江は、はっと目を開けた。
ベッドから降り、机に向かう。
開きっぱなしの皮表紙の本を両手に取り、ぱたりと閉じた。
「もう一回翔んでみるか」
花江は、その古ぼけた本をそっと引出の奥にしまった。
「今度はだいじょうぶそうじゃない」
「まあね」
咲子の家である。
旦那が出かけているというので、例によってエアロビクスの帰りに飲みによったのだ。
花江も咲子も、片手にビール、片手にバスタオルである。
「ねえ、花江・・・・」
「ん?」
「ねえ」
「なによ」
「ねえねえねえ」
「だから、なによ」
「もう、いったんでしょ?」
「なにが」
「なにがじゃないわよ。彼と、なに」
「なにってなによ」
「とぼけんじゃないわよ」
「なんにもあるわけないでしょ。まだ付き合って一ヶ月よ」
「うそつけ」
「ばれたか」
「ねえねえ、どうだった、彼」
「んー、まあまあってとこね。あっ・・・なに言わせんのよ、すけべ」
「でも、ほんとに彼女いないのかしらねえ、彼」
「そうなのよね。ルックスだっていいし、背も高いし、優しいし、センスもいいし、不思議よねえ」
「すっかりのめりこんじゃってるわけね、花江は」
「今度の日曜日、彼の家に行くの。はじめてなのよね」
「へー。両親に合うの?」
「彼一人暮らしなのよ」
「じゃあ、部屋とか掃除してあげちゃったりなんかするんだ」
「まあね」
「でもさあ、行ったら女もんの靴とか置いてあったりしてさあ」
「あるわけないじゃない。彼、社内でも評判の堅物なのよ」
「わからないよ。社内では堅物でも、ひとたび夜の銀座に出れば無類の軟派師、なんてね」
「ばかみたい」
「日曜日さ、ちょっと時間早めに行ってみたら?思わぬ場面に出くわすかもよ」
「くだらないこといわないでよ」
「そういえばさあ、前に持っていった本、どうだった?」
「あっ、ごめん。今度返す」
「いいんだけどさ。あれ、旦那に聞いたんだけど、やっぱり心当たりないって言うのよね。うちの本じゃないみたい」
「ふーん」
「どんな本だった?」
花江はビールの栓を抜いた。3本目だ。
花江があの本を読んだのは1ヶ月前である。
思えば、あの本を読んだ次の日に、彼と知り合ったのだ。
読んだといっても少しだけで、咲子に説明できる程のものはない。
「なんか面白そうな本みたいだったけど、まだあまり読んでないのよ、実は」
「なあんだ、じゃあ返してよ。なんかすごく興味沸いてきちゃったのよね、あの本に。どこから紛れ込んだか知らないけども、ミステリアスじゃない、とっても」
「そう言われると気になるわねえ。やっぱ、返すのやめた」
「ずるーい」
花江の胸には、あの本を読んだときの、わくわくした気持ちが蘇っていた。
そうだ、彼に教えてあげよう。今度の日曜日、彼の家で。
その朝、花江は五時に起きた。
部屋の掃除をしてからシャワーに入り、軽く朝食を取った。
日曜日に朝食を食べるのは、久しぶりだ。
たいていは、昼食と一緒になってしまう。
花江は、少しは緊張してるのか、と自分に驚いた。
彼の家へは、三時に行くことになっている。
まだ、時間はたっぷりある。
橘は、映画でも観た後に家で食事でもしようか、と誘ったのだが、花江が映画を断ったのだ。
花江には、深い理由はなかったのだが、映画より橘の家へ行くことの方をメインに考えたかったので、ついひねくれて、映画なんか観たくないと言ってしまったのだ。
花江は、いつもより時間をかけて化粧をした。
シャドーはいつもより濃く。しかし濃すぎないように。
頬紅はほんの少しだけ。付けているのが分からないくらいに。
ルージュは、気に入って買ったのだが、もったいなくて一度も使ったことのないピンクを筆で引いた。
前髪のおさまりが悪くて、何度もブローをし直した。
時間は早いが、買い物もあるので、早く出ることにした。
外は、よく晴れていた。
つくつくほうしは、全滅寸前といったところだがまだまだ暑い。
白のフレンチスリーブのワンピースは、花江の大のお気に入りである。
三時に橘が駅まで迎えに来る予定なのだが、花江は、時間も早いので、直接橘の家を訪ねることにした。
場所は、だいたい地図で調べてある。
買い物をしながら、ぶらぶらと歩いた。
今は知らないこの町が、いつかはあたしの町になるかも知れない。
大きなマンションであった。
七階建の七階に、橘の部屋がある。
今はまだ一時だから、すれ違う可能性はない。
花江は、インターホンのボタンを押した。
「はい」
「あたし」
「ん?」
「はなえ」
「あっ、ちょっと待って」
すぐにドアがあいた。
橘はタンパンにランニングだ。
「何だ、随分早いじゃない。電話くれれば迎えに行ったのに」
「ごめん」
「さっ、どうぞどうぞ、おあがりください」
「失礼しまーす」
マンション特有の小さな玄関に、女物の靴は置いていなかった。
花江は、自分の靴と、脱ぎっぱなしの橘の靴やサンダルを丁寧に揃えると中に入った。
部屋にはクーラーが効いていた。
男の一人暮らしにしては、よく片付けられていた。
「いま、ちょうど片付けてたんだよ」
「へー。随分きれいじゃない。もっと散らかってると思った」
「大事なお客さんだからね。きれいにしておかなくっちゃ」
花江はベランダのある窓を開けた。
「わー、七階ってやっぱり高いわね」
「でも風が強くて、開けっ放しにしてられないんだ」
「いいじゃない気持ちがよくて。クーラー切って開けときましょうよ」
「いいけど・・・」
花江はキッチンに向かった。
あらかじめ用意してきたエプロンを付けて、料理にとりかかる。
「お昼、まだなんでしょ?」
「お客さんにそんなことさせたら悪いなあ」
「いいのよ。そのつもりで来たんだから」
花江は、橘に鍋や皿を聞きながら、あっという間に二品ほど作ってしまった。
「へー、上手だね。すごくおいしいよ、これ」
「花江風野菜炒め。結構いけるでしょう。夕食はもっと凄いやつ作っちゃうからね」
「あっ、あのさあ、実は今日の夜、ちょっと用事ができちゃって・・・」
「えっ、用事って?」
橘も花江も箸を置いた。
「いや、大した用じゃないんだけど。十時には出かけなきゃならないんだ。ごめん、九時に車で送っていくよ」
「いいわ、わかった。でも夕食くらいいいでしょ?」
「もちろんだよ」
花江は、泊る用意をして来ていた。
少しショックだった。
でも、しかたがない。何も、今日だけしかここに来れないわけじゃない。
「ビールでも飲むかい」
「アルコールはだめなの」
「いつも結構飲むじゃない。体調悪いの?」
体調は万全だ。なおかつ安全日でもある。
花江は、そのつもりで今日という日を指定したのだ。
「体はいたって健康そのもの」
花江は胸を叩いた。
「今日はねえ、ちょっとした趣向があるの。だからそれまでお酒は飲めないのよ。」
「なんだい?その趣向って」
「ないしょ。本当は真夜中にやりたかったんだけどな。でも九時には帰らなくちゃいけないし」
「ごめんごめん。この埋め合わせは絶対にするからさ」
花江にとって、二人の時間は、かけがえのないものであった。
それだけに時間のたつのは早く、あっという間に日が落ちた。
何処へも行かず、何もせず、ただ向き合って話しているだけだった。
そんなことが楽しい恋なんて、学生時代以来であった。
「いいのよ、飲んでも」
「いいよ、送らなきゃいけないし」
「電車で帰るから」
「いいから。それよりかさ、そろそろいいだろ、趣向ってやつ。」
「そうね」
花江は立ち上がり、窓から外を見た。
星空だ。
「よく晴れてるわ。星がたくさん見える」
花江は橘の方へ振り返った。
「ねえ、もし自分一人で空を飛べたらって、想ったことない?」
橘は、花江の側に行き、肩にそっと手をかけた。
「そうだなあ、小さな頃に想ったことがあったかもしれない」
「やっぱり変かなあ、いい歳してこんなこと言うの」
「そんなことないさ」
「あたし、小さな頃から夢ばかり追ってたの。でも夢が叶ったことなんて一度もない。恋をするのも夢。幸せな結婚をするのも夢」
「一つ叶ったじゃないか、君の夢」
橘は花江をそっと抱いた。
「ありがとう」
花江は橘の胸の中で目を閉じた。
今までいくつの恋をしたろうか。
しかし、こんなに素直な気持ちになれたのは初めてだ。
ずっと肩肘を張って生きてきた。
でも、もう大丈夫。
優しくなれそうな気がする。
花江は、橘の目を見上げて、微笑んだ。
「飛んでみようかと思うの」
花江は、橘の胸からゆっくりと離れた。
「飛ぶって?」
「笑わないでね。本気なんだから」
「だから何を」
「友達から借りた本に、空を飛ぶ方法が書いてあったの」
「ハハハ、面白そうだね」
「ほおら、笑った。もう」
「ごめんごめん。もう笑わないよ。それでどうするんだい?」
「これなの」
花江は、バッグから小さな袋を取り出し、中身を掌に取った。
「なんだい、それ」
それは、1センチほどの小さな二つの粒であった。
一つは星型で銀色に輝き、もう一つは涙型でブルーに透き通っていた。
「あたしもはじめは半信半疑だったんだけど、本に書いてあるとおりにやったらこんなのが出来ちゃったの。これって、土と水と木だけで出来てるのよ」
「まるで錬金術だね」
橘は、不思議そうに、その二つの粒を見た。
花江は右手に涙の粒を握り、左手で星を無造作に口に放りこんだ。
「おい、大丈夫なのか?」
「わからない。でも、本に書いてあるとおりだとすると、あと10分もすれば効果が出てくるはずなの。恥ずかしいから向こう向いてて」
「なぜだい」
「いいから、早く」
橘は、理由もわからず、促されるままに後ろを向いた。
時折、窓から優しい風が入ってきて、レースのカーテンを揺らした。
カーテンの揺れるわずかな音に混ざって、衣擦れの音がする。
「いいわよ」
橘は、ゆっくりと振り向いた。
「きっ、綺麗だ」
花江は、後ろを向いていた。
その足元には、身に付けていた全ての物が落ちていた。
花江は、胸を両手で隠すようにして、橘の方を向いた。
その全身は、美しい桜色に染まっていた。
「綺麗だ。でも・・・」
「心配しないで。本に書いてあるとおりになってるだけだから。もう少しすると今度は、身体中銀色に光ってくるはずなの。そうなったときに、始めてあたしの身体が対流圏の空気の比重より軽くなるの。それで飛べるわけ。どんどん上昇して対流圏と成層圏の圏界面迄行くと止まるの。地上約一万メートルよ。降りてきたらどんな気持ちか教えてあげる」
橘は目のやり場に困り、視線をややそむけた。
「降りて来るのはどうするんだい?」
まだ、半信半疑の聞き方ではあるが、揶揄する響きはない。
「涙の粒を飲むと、昇った時と同じ早さで降りられるの。身体も元に戻るみたい」 花江の全身が、きらきらと輝きだした。
と、その時、ガチャガチャと玄関の鍵を開ける音がし、人の入ってくる気配があった。
瞬間、二人の間に緊張が走った。
居間の扉が勢いよく開いた。
「居たんじゃない。あっ・・・」
女性であった。
赤いタンクトップにタイトスカート、ソバージュを後ろで結んでいる。
もちろん花江は知らない。
花江は、小さく叫んでしゃがみ込んだ。
「百合・・・おまえ、なんで・・・」
橘は茫然と立ち尽くした。
「なによこの女。何で裸なのよ」
いいざま、百合と呼ばれた女は花江に駆け寄った。
「なんなのよあんた」
百合は、花江の肩を押した。
すると、その勢いで、花江の身体は羽毛のようにすうっと窓から外に出、ベランダの手すりを越えた。
「あっ!」
橘は、慌ててベランダに出た。
地上七階。
落ちれば確実に死ぬ。
「花江さん!」
叫んだ橘は、信じられない光景を目にした。
古(いにしえ)の本の魔力か。
花江の身体は、ベランダの先5メートルほどの空中に、ふわふわと浮いているではないか。
「橘さん・・・」
「花江さん」
花江の身体はいつの間にか、髪の毛一本に至るまで銀色に輝いていた。
「花江さん、違うんだ。こいつはそんなんじゃないんだ」
「いいの。何も言わないで」
「聞いてくれ。こいつとは随分前に別れたんだ。どうしても大事な話しがあるっていうから。急用だっていうから、今夜逢うことになっただけなんだ。合鍵を持っているなんて全然知らなかったんだ。信じてくれ」
百合は、窓際で茫然と、宙に浮いている花江を見ている。
花江は静かに微笑みながら言った。
「いいの、なんでも。わたしの夢、一つだけ叶ったから。夢は一つだけ叶えばいいの」
花江の全身の輝きが増した。
花江は大きく両手を広げ、星空を見上げた。
「素敵・・・」
花江の身体は、ゆっくりと上昇を始めた。
「花江さん!」
橘は花江の名を呼んだが、花江には聞こえないようであった。
花江の目から銀色の涙がこぼれ、ほろほろと玉となって上昇していった。
橘は、何度も何度も花江を呼んだ。
花江の輝く身体は、星の中に紛れて見えなくなった。
橘の呼び声も、その星の群れの中に吸い込まれていくようであった。
数分後、花江の消えた空の彼方から、悲しみの涙の粒が一粒落ちて来て、冷たいアスファルトの上で砕け散ったのを知る人は、いなかった。
おしまい
1992年6月12日